小学校5年生のときだろうか。近所の6年生の女の子、N さんと仲良くしていた。集団登下校をするときの同じ班の子だった。走るのが速く、運動の得意な子だった。あるとき、地域のドッチボール大会があった。私とは、N さんは同じチームだった。私は、運動は人並みで、ドッチボールも得意というわけではなく避けるのはうまいが、ボールを捕って当てるというのは苦手だった。もうすぐ試合が始まるというとき、理由は何だったのか忘れたが、N さんが体調不良か怪我か何かで試合に出るのが難しい状況になった。私は親切のつもりで、N さんの体を気遣ったつもりで「N さんがでなくてもだいじょうぶだよ。」と声をかけた。そうしたら、Nさんが泣き出した。私はうろたえた。何かいけないことを言ったのだろうか。ああ、Nさんがいなくても差し障りはない。出なくてもいい。必要ないというように、伝わってしまったのだと思った。すぐに謝りもしたし、その後Nさんとの関係が悪くなったわけでもないが、私は、小学生ながらに「言葉は難しい。いつでも自分の思いを正確に伝えられるわけではないのだ。」と思った。その時から、人に対して話すことに臆病になった。自分の話した言葉で人に嫌な思いをさせないか、この言葉で、自分の真意は伝わるのか。また、あんな思いをするのは、させるのは嫌だとずっと思ってきた。かと言って、私が、話をしなかったわけではないし、自分の言葉で周りの人を傷つけることも普通にあったと思う。でもなんとなく心にその出来事が引っかかっていて、はっきりものを言えなかったり、自分の意見を言うのに躊躇してしまったりすることはあった。
最近ふと思ったのは、Nさんが泣いたのは、私の言葉に傷ついたからっだったのだろうかということ。そうかも知れないし、そうでないかもしれない。子どもだった私には、その答えしか考えつかなかったが、もしかしたら純粋に試合に出られなかったことへの悔しさだったかもしれない。体の痛みもあったかもしれない。自分が試合に出られないことでチームが負けてしまうであろうことへの申し訳無さや、6年生なので来年はその大会に出られない、今回が最後なのにという思いもあったかもしれない。今になってみるといろいろな理由が考えられるし、今なら、Nさんに何故泣いているのか聞くこともできただろう。
ずっと、話すことへの抵抗や怖さみたいなものがあった。でも、言葉なんてツールであって、自分の気持ちを100%正確に伝えることなんてできないと思う。言葉をつないで、一生懸命伝えようとする。誤解があれば説明する。必死に伝えようとしても伝わらないこともある。それが分かっているうえで、できるだけ自分の思いが相手にうまく伝わるように考えたり言葉を選んで話せばいいのかなと思った。
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